盆会

  8月12日


お盆は、自分の帰る場所を確かめるご縁かも知れません。
帰るというのは、何も息を引き取ってからに限らず、
生きている今、毎日毎日立つべき場所はどこかということです。

お墓の前に立つと、必ず先人を思います。
そして、先人あってこその自分であったことが思われます。
お墓みたいなシンボルが無いときには、忘れていることですね。
そして、福井のほとんどのお墓には「南無阿弥陀仏」と刻まれています。
先人方は、姿も形も匂いもない「ほとけさま」に成っていらっしゃるという意味です。
どこのお墓を見ても「南無阿弥陀仏」と刻んであるので、
隣の家のおじいさんも、見ず知らずのおばあさんも、みな区別のない「ほとけさま」なのです。
これが大事な教えだと思うのですが、自分を育てて下さったのは、何も我が家の先人だけではなかったのです。
このことに気がつかされるとき、自分の帰る場所は、とても広くて大きいものだと驚くのです。

そして、「南無阿弥陀仏」は刻まれているだけではなかったのです。
お参りになる方々の声に成って、あちらこちらから聞こえてくるのです。
つまり、息を引き取った後も、今なお生きていらっしゃると思えるのです。
生きてなお、「南無阿弥陀仏に立って生きてくれよ〜」と呼びかけて下さっていると、教えていただきました。
すると、自分の帰る場所は、ちっとも暗くないし、安らかに眠ってもいられない場所だったのです。
死んでも、はたらかないといけないのです(^_^)
ラクじゃないけど、明るいじゃないですか。

南無阿弥陀仏に立って生きるっていうのは、自分に執着して生きるんじゃないよという呼びかけだと思います。
だって、自分って言ったって、100%いただきものですからね。育てていただいたものですからね。
自分自分って言ってると、自分の周りが地獄みたいにトゲトゲになるよ、ということかも知れません。

南無阿弥陀仏は霊を慰める言葉、お墓参りは先祖の霊を慰める行為、
NHKのニュースでも流れるような常識とは、かけ離れた話ですが、
先人の喚び声こそが私の帰る場所、お盆はそれを確かめる良いご縁、
僕はこれこそが何百年何千年という仏教の王道だと、いただいています。