2013年 美和子が聞く

武周のお講さま 5月


当番 にしさん

午後7時からおつとめ  お茶  法話1席

歎異抄 第二条

  おのおの十余(じゅうよ)(こく)のさかいをこえて 身命(しんみょう)をかえりみずして たずねきたらしめたまう (おん)こころざし、ひとえに往生(おうじょう)極楽(ごくらく)のみちを といきかんがためなり。しかるに 念仏(ねんぶつ)よりほかに往生(おうじょう)のみちをも存知(ぞんち)し、また法文(ほうもん)(とう)をも しりたるらんと、こころにくく おぼしめして おわしまして はんべらんは おおきなる あやまりなり。もししからば 南都(なんと)北嶺(ほくれい)にも ゆゆしき学生(がくしょう)たち おおく()せられて そうろうなれば、かのひとにも あいたてまつりて 往生(おうじょう)(よう) よくよくきかるべきなり。親鸞(しんらん)におきては ただ念仏(ねんぶつ)して 弥陀(みだ)にたすけられまいらすべしと よきひとのおおせをかぶりて (しん)ずるほかに (べつ)子細(しさい)なきなり。念仏(ねんぶつ)は まことに浄土(じょうど)にうまるるたねにてや はんべるらん、また 地獄(じごく)におつべき(ごう)にてや はんべるらん。(そう)じてもって存知(ぞんち)せざるなり。たとい (ほう)(ねん)聖人(しょうにん)にすかされまいらせて 念仏(ねんぶつ)して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからずそうろう。そのゆえは 自余(じよ)(ぎょう)もはげみて (ぶつ)になるべかりける()念仏(ねんぶつ)をもうして 地獄(じごく)にもおちて そうらわばこそ すかされたてまつりて という後悔(こうかい)もそうらわめ。いずれの(ぎょう)も およびがたき()なれば、とても地獄(じごく)一定(いちじょう)すみかぞかし。弥陀(みだ)本願(ほんがん)まことにおわしまさば、釈尊(しゃくそん)説教(せっきょう) 虚言(きょごん)なるべからず。仏説(ぶっせつ)まことにおわしまさば、善導(ぜんどう)御釈(おんしゃく) 虚言(きょごん)したまうべからず。善導(ぜんどう)御釈(おんしゃく)まことならば、(ほう)(ねん)のおおせ そらごとならんや。(ほう)(ねん)のおおせまことならば、親鸞(しんらん)がもうすむね またもって、むなしかる べからず そうろうか。(せん)ずるところ、()(しん)信心(しんじん)におきては かくのごとし。このうえは、念仏(ねんぶつ)をとりて(しん)じたてまつらんとも、またすてんとも、面々(めんめん)(おん)はからいなりと 云々(うんぬん)