2013年 美和子が聞く

武周のお講さま 11月


当番 げんべあらやさん

午後7時からおつとめ  お茶  法話2席

今月のお説教は、こんな問いかけから始まりました。

「お釈迦さまだって、80歳で亡くなったんですよ。
 なのに、なぜ、喜んで死んでいかれたのでしょうか?」

これはお釈迦さまが、
「生老病死」の苦しみを抱えながら生かざるを得ない私たちに遺された、
宿題ではないかと指摘されました。

お釈迦さまは、亡くなられるとき、
「生まれかわらなくていい」とおっしゃられたそうです。
それはつまり、「もう、やりなおさんでもいい」ということで、
そう思えたら、宿題が出来たということではないかと話は進みました。

私たちは、お釈迦さまや親鸞聖人が「まちがいない」と確信しておらたことが、
どうしても理解できないでいます。
私も、なんとなく、分かったような気になる時もありますが、
自信がなかったり、すぐ忘れてしまったりします。
心の底から、安心しておまかせできるほど「確信」していないです。

今回、たとえとしてあげられた、コペルニクスの話がとても印象的でした。
昔、空を見上げた人はみんな、太陽が東から西へ動いていると信じていたのに、
コペルニクスが動いているのは私たちの方だと主張したそうです。
今では「地動説」は常識で、空を見上げて太陽が動いているように見えても、
太陽が地球の周りを回っているとは誰も思いません。
しかし、当時の人たちは彼の説を全く受け入れず、変人扱いしたのですが、
コペルニクスは死ぬまで「動いているのは私たちの方だ」と言い続けたそうです。

全く領域の違う世界の話ですが、
理解が苦しくても「まちがいない」ことって、あるみたいです。

だから、浄土真宗は「まちがいない」と言い切るのは乱暴ですが、
まちがいないと確信できたらいいのになぁと、思いながらききました。