2014年 美和子が聞く

武周のお講さま 12月


当番 いわえもんさん

午後7時からおつとめ  お茶  法話2席

今月のお説教は歎異抄第3条をご縁にしてすすめられました。

第3条は「悪人正機」、
「善人なおもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」
  (善人でさえ往生をとげるのだから、言うまでもなく悪人は往生できる)
という有名な一文からはじまります。

なぜ、「悪人」が救われるのか?

歎異抄に書かれているくらいですから、今の時代だけでなく、
親鸞聖人の時代でも混乱された人が大勢いたのだと思います。

それは浄土真宗で使われる「善人、悪人」という言葉が
一般的に使われる「善人、悪人」と意味が全く違うからだと話は続きました。

親鸞聖人がおっしゃる「善人」とは
「自分の力でいいことをやっていると思っている人」
逆に「悪人」とは
「いろんな煩悩を抱えて自分が罪深い存在だと気付いている人」です。

なるほど、そう説明してもらえば分かりやすいですね。
でも、住職はこの部分が「大変むずかしい」とおっしゃいます。
それは意味は分かっても、私たちは性(しょう)に染みて納得できないからです。

私たちは自分が「罪深い存在」だと思うことが出来ません。
自分とその周りの人だけは幸せになりたい、そのためならどんな努力でもできます。
こんだけ頑張ったんだから、きっと良いことがあるだろうと思ってしまうのです。
良いことをしたら、「ありがとう」の言葉を期待してしまったり、
自分が正しいと思ったら、相手を徹底的にやっつけたり、
許してやろうかと、上から目線になったりします。

自分の力でなんでもできていると思っています。
それが私たち人間の本性です。
親鸞聖人がおっしゃる「善人」って、かなり醜い姿ですよね。

そのことに気付かされてしまったら、本当に悲しいですが、
残念ですが、私たちは「善人」から「悪人」に変わることは出来ません。

変わることは出来ませんが、気付いて生きるのと気付かずに生きるのとでは、
毎日の暮らしが大きく変わってきます。

親鸞聖人が教えて下さった悪人しょうきの教えは、
「あなたは善人の生き方をしていますよ」と
私たちに教えて下さっているのだと思います。

絶対に存在するはずのない「悪人」を、
あえて登場させることには大きな意味があります。
「悪人」の存在が「善人」の存在を際だたせるからです。

闇があるから光の存在に気がつけるように、
相反する者の存在はとても大切です。

悪人にはなれない私たちが、
このままではいけないと自覚して生きていくことに、
意味があるんだと私は思っています。

とても辛い生き方ですが、
同じ道を歩く仲間の存在が支えてくれます。

新しい年も、共に歩いていきましょう。