福井市武周町 西雲寺さいうんじ 真宗佛光寺派 なんまんだぶつとしだれ桜のお寺です 

 美和子が聞くお講さま 8月

8月28日

当番 によもんさん


今月のお講さまは、
「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」
という、正信偈のお言葉をご縁にすすめられました。

「一歩一歩自分の足で進んでいく道(陸路)は苦しくて、
船に乗せてもらって進む道(水道)は楽だと、あきらかにされました」
直訳すると、こんな感じでしょうか。

この部分のお話は何回も聞いたことがあります。
「自力」を「陸路」、「他力」を「水道」にたとえて、
私自身の立ち位置を指摘して下さっている部分です。

普通に考えれば、歩くより、船に乗る方が楽ですから、
そこに船があるのに、わざわざ歩く人なんていません。
バカバカしいくらい当たり前のことです。

では、そんな当たり前のこと、なぜ、親鸞聖人はお書きになったのでしょう?
それは、この「船に乗せてもらう」というのが、とても難しいからです。
言葉だけ読むと簡単そうだけど、
私たちは、この「船」になかなか乗れないのです。

誰だって、その船が「どこに向かっているんだろう?」
「もしかして穴が空いていたりして?」
と、疑っていたら乗れませんよね。
船に乗ってしまえば、
もう、自分ではどうすることも出来ないのですから、
信用できない船には乗れません。

だから、乗れない。
私たちは、信用できないんです。
私はゼロだということを。
全ては「いただきもの」だということを。
だから、全てをおまかせして乗るなんて、無理です。

親鸞聖人は、私たちが船に乗れないことをちゃんとご存知だったから、
あえて、この一文をお書きになったのではないかでしょうか。
私たちへの問いかけとして。

「今日一日を、私はどっちの方法ですすんでいくの?」

親鸞聖人は、私たちが、この問いかけを毎日毎日繰り返すことで、
自分のいる場所を、ここが陸路のど真ん中であることを、
思い出して下さいとおっしゃっているのだと思います。

私たちは、もしかしたらどれだけ聞法しても、
船に乗ることは出来ないのかもしれません。
でも、何も知らずに陸路を歩くのと、
船に乗れないことを知りながら陸路を歩くのとでは、
全く意味が違うと、私は思うのです。

陸路は苦しい。
でも、それがなぜなのか、なぜ苦しいのかを知ることは、
とても大切だと思います。

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