チューラパンタカ(周利槃特・しゅりはんどく)

釈尊(お釈迦さま)が、生きておられた時の話です。
インド北部に、2人の兄弟がおりました。
兄はとても賢くて、釈尊の教えをよく理解し、深く仏教に帰依していました。
弟の名は、周利槃特。
ものを覚えるのがたいへん苦手で、自分の名前すらも覚えられず、
いつも人から笑われていました。
兄は、弟を心配し、釈尊から聞いた教えを短い詩にまとめて、
なんとか弟に覚えさせようとしますが、
朝には覚えられたと思っても、昼にはもうごちゃごちゃになってしまうのです。
あるとき兄は、弟を励まそうとして、
「自分の道は自分で探しなさい」と突き放しました。
それを聞いた周利槃特は、自分の愚かさに涙を流しながら途方にくれてしまいました。

それをごらんになっていた釈尊が言いました。
「自分が愚かであることに気づいている人は、智慧ある人なのです。
愚かであるのに自分はかしこいと思っている人こそ、本当の愚か者なのです。」
そして、周利槃特に1本のほうきを渡して、
「ちりを払わん、あかを除かん」
と、掃除をしながら唱えなさいと教えられました。
こんなに短い言葉でしたが、友人たちに助けられながら、どうにかこうにか、
来る日も来る日も唱え続けました。
自分の道は自分で探さなけらばという必死の思いと、
ちりを払う、あかを除くという釈尊の教えとが重なって、
だんだんと、周利槃特の心の中で、問いが熟していきました。

そうだ、ちりやあかとは、私の執着の心。
そうだ、丸っぽ私はちりなのだ、丸っぽ私はあかなのだ。
そうだ、私は今から、仏の眼をいただいて生きていこう。

古いお経を読むと、周利槃特は天眼を得たと書かれてあります。
つまり、彼はさとりを得たのです。
仏の眼(仏の教え)を疑いなく受け入れて、
仏の眼に依って生きていこうという曇りない決意こそ、
はっきりと澄んだ、朗らかなさとりの味わいだったのです。
周利槃特は、さとりを得て、賢くなったのではありませんでした。
ましてや、仏法を教える側の先生になったのでもありませんでした。
彼は、仏法に教えられながら、教えをわが両眼として、
一生涯を生きていく人となったのでした。

誰よりも愚かだった周利槃特がさとりを得たことに、周囲が驚いていると、
釈尊が静かに言いました。
「さとりには、多くのことを学ばなければいけないというのではないのです。
ほんの短い教えの言葉であっても、その言葉の本当の意味を理解し、
道を求めていくならば、さとることができるのです。」

仏の教えは、どんな人にも、等しく、広く、開かれています。
ほんの短い言葉でもかまわないのです。教えを聞いていきましょう。

  (文責・一哉  参考・『ブッダと親鸞』東本願寺出版、『仏弟子の告白』岩波文庫)


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