十三回忌七回忌・聴聞記
4月23日

福井市大村町 奥田順誓師


お説教の主題 「如来の作願(さがん)をたずぬれば 苦悩の有情(うじょう)を捨てずして
           回向(えこう)を首(しゅ)としたまいて 大悲心をば成就(じょうじゅ)せり」
  およその意訳・・・如来さまの願いの中身をたずねてみるならば、苦悩の人々をお捨てになることなく、
              もっぱら仏の方から働きかけられていらっしゃることが、この私にはっきりと分かります。

法事の席で念仏するのは、亡くなった方のためという一面もあるかもしれないが、
亡くなった方が私に念仏申すご縁を作って下さった、仕向けて下さったといただくことが尊いこと。
私が手を合わせているんだけれど、それを仏の働きといただく。
仏様の方から願って下さっている(作願)
今、私に回し向けられている(回向)
私がお念仏申す身にさせていただく(成就)
前住職・前坊守は、たまたま一緒な村で過ごしたという縁だけでない。法縁を共にした人。
私が仏に願い事をするのでない。そういう心が起こることもあるが。
私は願われているということに気がつくこと。これが尊いこと。

例話
ある大学の先生は住職でもあったが、長らく学問に専念していたことを省みて
早期退職して寺の勤めに専念した矢先、奥さんを亡くされ、寺に一人となる。
それから1年後、お寺が全焼、自身も大やけどを負う。
本堂を二年かけて再建、嫁や孫と同居を始めるも、
それから数年後、ご子息が自死。
一周忌の翌日、嫁と孫が実家へ引越してしまい、また一人に。
つらいことの連続で、愚痴があふれてくる。
しかし、その一方で確かな喜びを感じておられた。
晩年の歌、「祈りたき心の起こる寒空に 夜もすがら立ちたもう姿尊し」
欲をかなえようと祈りたくなる自分を、如来さまに「愚かやったな」と教えてもらう
はたから見たら不幸な境遇は何一つ変わっていないけれども、如来さまと喜びの日々を送られた。
ノートの一番最後の歌は、「親送り 妻先にゆき 子の急ぐ あかねの雲は美しきかな」
雲に覆われた人生ではあるが、仏の光(教え)は雲の下まで届いて下さることを賛嘆されている。
つらい中でも生きていく支えに気づく=信心をいただく、念仏を通していただく

例話(回向)
京都時代の友人(広島県出身)
正月、汽車賃がないので帰郷しないのだが、京都で正月を過ごしたいと見栄を張る。
京都の友人との先約があるからと、母親からの帰郷の誘いを何度も断わる。
何もかも息子のこと(仕送りをすぐ使うことも、強情なことも)をお見通しの母親は、
最後に、切符だけを封筒に入れて送った。
「親のやつが切符を送ってきたから、仕方がなく帰るわ」
自尊心を傷つけることなく大義名分をもらって、彼は意気揚々と帰郷する。

その母親と、凡夫の全てを見通す如来さまとが重なって感じられる。
我々に願いを回し向け、差し向けて下さっている。
仏の心に遇ってほしい、お念仏申す身になってほしい、聞いてくれ、遇ってくれ、
そのこと一つを、法事を通していただいてほしい。







戻る

ホームへ