一年は過ぎてみれば本当に早いですね、 あっという間に2005年最後のお講さまです。 12月のお説教は毎年、住職の年賀状についての話だそうです。 (毎年この時期は里帰りしているので、なかなかご縁がないのです。 今年は大寒波の影響で里帰りが中止となり…) 光壽無量から始まるその文面には、そのあと榎本栄一さんの詩が書かれています。 「ながいこの道 ゆきゆけど 私は一生 未熟なままの しろうと」 年を重ねると私たちはどうしても 年々なにかを獲得して偉くなっていくように思うけれど、 聞法することによって自分自身を知らしめ、まっさらの一年生になる。 聞法することによって歩み続けることが出来る。 未熟な素人のまま聞法し続けることの意味のようなことを説かれました。 今回のお説教で私はこの「未熟」という言葉が心に突き刺さりました。 最近自分の未熟さを痛感することが多いからです。 気付かせてくれるのは私の3人の娘たちです。 「親」という肩書きがあっても私の考えに芯がなければ見透かしたような顔で私を見つめ、 そのまなざしを直視できない時などは情けなさで胸がいっぱいになります。 ある意味では、こんな娘たちとの関わり自体が聞法と言えるのかもしれません。 聞法とは聞いたから偉くなるというものではなく、聞けば聞くほど頭が下がるものだと、 今回も住職は何度も繰り返されていました。 |