差し向け布教 聴聞記その2
6月19日 日中2席 西雲寺本堂にて 
兵庫県芦屋市 藤谷信道師


私はこのように聞きました。(一哉)
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日中
 今日の主題・・光
  光とは
 仏の知恵のはたらきのこと(正信偈の南無不可思議光、仏壇のろうそくに象徴)
   何を照らすか→ この私のの根性の闇 厳しい光 
           →自分を一番大事にしていることが照らされる 
   例話 亡くなったおばあさんの枕元で、ずいぶんやせましたねと言ったら、
       隣の若奥さんが自分のことと勘違いして、5キロ痩せましてんと嬉しそうに言った。
  →自分では闇を破れない
    我が破れないと苦しい世界 つっぱり続けなくてはならない そのままの姿になれない
    例話 ひきこもりの高校生・・その主な原因はこころを閉じて我を張っていること
                   周囲との摩擦を避けてきたため、つっぱっているんだけど弱い。
                   こだわりすぎて疲れている。
                   下宿代を大家さんに手渡すことをイコール
                   独力で支払っていることだと勘違いするなど、世界が閉じている
   本堂の伝道掲示 「自らの愚かさを知りし喜びを南無阿弥陀仏と称えつるかな」
   金子大栄師 「念仏は自我崩壊の響きであり 自己誕生の産声である」

  比較病 落ち着くことがない
   本堂の伝道掲示 「仏法はあなたがあなたになり、わたしがわたしになる道」
   例話 年少の時、喜んでリンゴを食べていたが、兄の大きなリンゴを見たとたん泣き出した
         味が変わったわけではないのに、もうおいしくない。
       「隣に倉が建てばこちらは腹が立つ」
         これも、こちらの家の状況は何も変わっていない。
  →わたしがわたしになる=身と心が一つになる
     腹が決まる 一歩始まる 逃げない  
     我の強さは治らないが、ふらふらしても再び落ち着くべき所に戻ること
  →正定聚の位=往生が定まった仲間に入れてもらうこと
     親鸞聖人は生きているうちに仲間にいれてもらうとおっしゃる
     どんな死に方をしても。
     「生きるものは生かしめたもう、死ぬるものは死なしめたもう 
                我に手のなし 南無阿弥陀仏」 (藤原師)
     ひと息ひと息を喜ぶ ありがたい 命が輝く

  「帰命」とは
     帰命は頭が下がること、礼拝は頭を下げること。(強制しても帰命は起こらない)
    礼拝の例話 選挙のお願い、息子の就職のお願い
    帰命の例話・・姥捨て山の話(登る途中で背中の老母が何度も枝を折っていたのは、
                      山奥から息子が無事帰られるようにと思ってのことと知り、
                      心打たれて再び背負って帰ったという話)
             「奥山に枝折り枝折るはたがためぞ 親を見捨てて帰る子のため」
            初めて親の願いが届いた たまたま何かの節に分かる 
            それからずっと母親を大事にするかというとそうではないが、
            そのことが一回あると再び帰る世界がある、気がつく世界がある。





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