聞いて、聞いて、そして聞く



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その4



この1ヶ月、咳が止まりませんでした。
診療所の先生によれば、花粉か何かのアレルギーだろうということでした。
上記の薬をいただいて、段々治まってきましたが、まだすっきりしません。
1年中鼻炎ですし、目も充血しますし、これに咳が加わったとしますと、
生涯付き合わねばならない病が一つ増えたことになります。
咳がひどいときは、おつとめは蚊の鳴くような小声で。
それでも途中で止まり、家の方に気遣ってもらうこともありました。
後ろでゴソゴソ音がすると思ったら、ストーブが4つも並んでいたことも・・
そんな申し訳ないお参りの連続でした。
命にかかわることではないでしょうが、
お参りの場では、おつとめも法話も全て声ですから、
そういう意味では、僧侶としての存在を否定するような病でもあります。

自分の体の弱さも、僧侶としての頼りなさも十分身にしみるわけですが、
それですぐ仏法大事と思い、浄土を願うかというと、そうではないのでした。
願うのは病の快復、そればかり。
病を得たからといって、すぐに信心深くなるわけではありませんでした、
願うのは、自分にとっての極楽ばかり。

ところが、仏法大事と思い、本願を聞き念仏申すということが、
僕の身の上に成り立つ時がありました。
それは、仏法を大事になさったお同行の姿を見る時です。
現実にいらっしゃる時でも、
もう亡くなられた方のお姿を聞かせていただく時でも、どちらでもいいのです。
不治の病の中、本願念仏を大事にされた方の姿、
帰省した息子に仏壇に参れ、恩を忘れるなと判で押したように繰り返した故人の姿、
そういった方々は、有名でも聖人でも何でもない。
しかし、宗祖が法然上人に出会った重みと同じ重みを持つように思うのです。
つまり、先人の姿こそ、仏の働きを僕に伝えて下さるのです。

「横超の大誓願」という正信偈の言葉を思います。
縦(宗祖に従えば「竪」)に超えるのではなく、横に超えるということです。
上へ上へと、自分を頼んで超えていくのではなく、
仏の誓い(大誓願)の船に乗せてもらって、
横さまに、生死の海を渡るのだと宗祖は言います。(一念多念文意)
「横超」という言葉は、何だかムシのいい話のように聞こえていたのですが
自分の思いの外から働きかけを受けるということではないかと思われました。
体調が悪いことと、自力を捨てて仏教を聞くこととは短絡しませんでした。
しかし、横から、思いもかけず教えを受けるということがあると思うのです。
その横というのは、先人の姿に他ならないと思うのです。
いかがでしょうか。


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