お講さまの法話原稿(8月)

カレンダーの言葉(お同行にお配りしている直枉(じきおう)カレンダーより)
「戦争は正しい者同士が争う最低最悪の業である」

法話の讃題(さんだい・・法話の拠り所となるお聖教の言葉) 
「よきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらせば他力にてはそうらえ」(歎異抄第13章の言葉) 


今回は、カレンダーの言葉の前半分について考えたいと思います。
「戦争は正しい者同士が争う」という言葉です。
この言葉は、私にとって耳が痛い言葉です。
戦争というのは、何も悪い者同士が争うのではない、正しいもの同士が争っているのだ、
正しいと思っている者同士が、とても人間とは思えない残酷な事をしているのだ、
このような意味に聞こえます。
それは、決して人ごとではありません。
「戦争」を「ケンカ」という言葉に置き換えても、話がそれることにはならないでしょう。
腹が立つのは、お互いが自分だけ正しいと思っているからだ、そのように聞こえてきます。
これは、人間の考える正しさを丸ごとひっくり返す、厳しい視点です。
この前半の言葉は、僕は仏様の言葉だと受け取りました。
仏様というと、仏像のような方だと伝わりそうでためらわれますが、他に言葉を持ちません。
自分の正体をはっきり知らせて下さり、自分の闇を開いて下さるのは、自分を超えた働きによります。
言葉を換えて言えば、仏の眼で見た私の姿、仏の眼で見た人間のありさまということです。
『正信偈』でいえば、「邪見慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」という言葉です。
邪見とは、よこしまな見方、つまり何が真実か見えているつもりで全く見えていないこと、
慢とは、おごった見方、つまり自分を中心に置いて他人を見下したり見上げたりすること、
悪衆生とは、お互いに傷付け合って生きている我々の姿、
私は、このように聞いています。
自分の目では、相手が悪い、先に手を出したのは相手だ、これは正当な報復だ、防衛だ、など、
自分が正しいという見方から離れられない、なるほど言われてみればその通りです。
仮に自分の落ち度を認めたとしても、わずかな正当性にすがりつく自己弁護を抑えきれないでしょう。
報復心の噴出を抑えきれず、自爆テロを決行して自分も他人も傷付けることも、決して人ごとではありません。
まさしく「邪見慢悪衆生」と言われるような姿だと、心から納得せずにはおれません。



今回私が大事な問題だと思ったことは、「戦争は正しい者同士が争う」という言葉や
「邪見慢悪衆生」という教えの言葉は、いったい何を私たちに呼びかけているのかということです。
人間はどうしようもない、お前はどうしようもない者だと、
何か人間を見捨てるような冷たい響きに感じられますが、果たしてそうなのか、という問題です。
しかし、先輩方が伝えて下さった教えの言葉は、実は仏様の言葉だったと受け取るならば、
そこには必ず、私に対する呼びかけ、働きかけがあるはずです。
そこで、最初に讃題としていただきまし歎異抄第13章の言葉に戻ります。
「よきこともあしきことも業報にさしまかせて、
ひとえに本願をたのみまいらせば他力にてはそうらえ」という言葉です。
私は、「善い行いも悪い行いも業(ご縁次第の行い)の結果であると受け取って、
ひとえに本願(仏の国に来たれという呼びかけ)を大事に生きることこそ、
他力(仏の働き)なのです」という意味だと受け取っています。
自分の行いは、善かれ悪しかれ御縁次第の結果なのだというのが、仏様の目からの呼びかけであり、
その呼びかけに、なるほどその通りだとうなづくこと、それ自体もまた仏様のはたらきであると思います。
その呼びかけを基準にせず、自分の思いを基準にすると、正しい者同士が争う悲しい姿になると教えるのです。
そして、我々は突き放されたのではなく、仏の国に来たれと呼びかけられています。
自分中心の世界に生きるのではなく、仏のはたらく世界に生きて欲しいということだと思います。
そういった呼びかけは、すべて他力という言葉にこめられていると思います。
自分の目や考え方を基準に人と接するのではなく、
仏の目からの呼びかけを基準に人と接して欲しい、そのように私は受け取っています。
それは、自分の行いの善し悪しに縛られることから自由になる、そんな世界を見せて下さります。
他の人には他の人の背景があることが、思いのほか大事だと感じる、そんな世界も見せて下さいます。

そして、仲間が、先輩が、とても大事に感じられる、そんな生き方を開いて下さるのだと思います。
2006/08/31 文責 一哉



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