お講さまの法話原稿(9月)

カレンダーの言葉(お同行にお配りしている直枉(じきおう)カレンダーより)
「大きな音をたてると、小さな虫さんがびっくりするのよ。」

法話の讃題(さんだい・・法話の拠り所となるお聖教の言葉) 
「よきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらせば他力にてはそうらえ」(歎異抄第13章の言葉) 


今月のカレンダーの言葉は、お聖教の言葉というより、子供の口から出た言葉のような感じを受けます。
子供というのは、澄んだ瞳が物語るように、ストレートな感性を持っていて、
例えば、ハンセン氏病を患った人と出会っても、子供は伝染するとか怖いとか身構えることなく、
驚くほどストレートにその人の苦しみや痛みが分かるいう新聞記事を、最近読んだことがあります。
一方で、自分の思うようにいかないと相手の迷惑も目に入らないという、狭い面も持ち合わせていますが、
このカレンダーの言葉は、子供のような先入観のないストレートな感性で、
小さな虫と人間とが同じ目線で捕らえられているように思います。



我が身を振り返れば、子供に人気のカブトやチョウなんかなら、早起きしてでも追っかけるんですが、
悪さをする虫となると、姿を見るなり悪者扱いしますよね。その代表はカメムシと蚊でしょうか。
草なんかも同じで、あぜや土手に草が茂ってきたら、有無をいわずに刈ってしまいます。
でも、その中にワラビが一筋見えたらどうでしょう。
一筋なら分かりませんけど、あちこちに見えようもんなら、
草刈り機のエンジンを切って、まずそこらあたしのワラビを折ってから、
しかも、もう他にどこにも生えてえんか、目をさらにしてよう探してからやっとエンジンをかけるでしょう。
他の草の名前は知らないし、食べられもせんから刈ってしまってもちっとも惜しくはないけれど、
もし、誰もが欲しがるおいしい草が生えていたり、絶滅が危惧されているような珍しい植物が生えていたら、
草を刈る手も止まります。
それは、子供にはない先入観だろうと思います。
子供には、食べられるとか食べられないか、珍しいとかありふれているとか、
そんな価値観はまだありません。
私たち大人は、その価値観が当たり前だと思って生活をしています。
その価値観を疑ってかかったりしません。ワラビはいい草、その他はいらん草。
大きい音を立てて虫を驚かすぐらい、たいしたことではなくて、
カブトは増えて欲しい虫、カメムシは絶滅してもかまわん虫。
カメムシを殺さん方がいいやろうという人がいたなら、
田んぼのため、生活のためには殺さなあかんと、強い態度で反対するでしょう。
まあそれでもかわいそうやと、逃げた虫までは追わなかったりするかもしれません。
でもそれは、上から下へ情けをかけるということであって、同じ目線で生活することとは全く別です。
そういう意味でカレンダーの言葉からは、
私たちの目は、虫や草を見下ろす高いところについてるぞと言われているようです。
そして、自分に都合がいいか悪いかでしか見分けていないぞという声も聞こえてきます。
お聖教の言葉ではありませんが、虫を同じ地平で見る目がないということを、はっきりと教えられます。



さて、そんなら明日から虫は殺したらあかんのかなと、僕はすぐ思ってしまいます。
確かに、仏教の言葉で「衆生」といえば、生きとし生けるものすべてを指します。
動物も昆虫も花も草も、人間と同じ地平で生きる世界を、仏さまは教えて下さっています。
でも、生き物を人間と同じ地平で見るのが仏教だから、仏弟子は皆そうしないといけないというなら、
それは大変なことです。
僕は即刻落第です。道を歩く、車で道を走る、それだけで落第です。
では、虫を同じ地平で見る目がないという、この教えは一体何を僕に呼びかけているのでしょう。
先日、たまたま次のような話をお聞きしました。
因幡の源左というお同行の話です。
若くして死別した父親から「おらが死んだら親さまたのめ」という遺言をもらったけれど、
源左同行は何年もその意味が腑に落ちなかったそうです。
ところがある朝、いつものように牛と草刈りに行って、牛の背中に刈った草を背負わせていたとき、
「ふいっとわからしてもろうた」と言います。
お聞きしたお説教では、源左同行は、牛を自分の善知識(先生)だとあがめていたということでした。
自分中心ではない、広やかな世界をいただいてみれば、
牛を自分の先生だと仰ぐことは、まったく自然なことなのです。
牛を見下げたり、役に立つか立たないかという色眼鏡で見るのでないことはもちろん、
仏教ではこうだから、という理屈の押しつけでもないのです。
源左先輩の話をお聞きしてみると、仏の眼をいただいて生きるということが大事なのであって、
虫を殺す殺さない、大きな音を立てる立てないが問題ではないと感じます。
カレンダーの言葉は、自分の色眼鏡は捨て去るべきもの、
仏の眼こそ大事にすべきもの、そのように呼びかけているように思うのです。



それは、先月とまったく同じですが、讃題にいただいた言葉から教えられることなのです。
「よきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらせば他力にてはそうらえ」
という、歎異抄第13章の言葉です。
ウサギの毛やヒツジの毛の先についているホコリほどの小さな罪でも、自分の宿業でないものはない、
同じ13章に伝えられる聖人の言葉には、そのような言葉もあります。
宿業といったり、業報といったり、耳慣れない言葉ですが、
ここらの人は、自分の業は深いというように、自らが背負っているものだと捉えています。
牛を見下げる目は悪い、牛を平等に見る目は善いということが問題の中心ではなくて、
よいときも悪いときも、それは自分の身に備わっている業であると、逃げずに背負うということです。
だから、善い人間になろう、悪い人間になろうという方向ではなくて、
「ひとえに本願をたのむ」ということが大事なのだということでしょう。
先月の言葉とも重なりますが、やはり仏さまの目を通して見せていただくこと、
仏さまの目を通した世界の方向へ向こうということ、これが大事なのではないでしょうか。
2006/09/29 文責 一哉



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