お講さまの法話原稿(10月)

カレンダーの言葉(お同行にお配りしている直枉(じきおう)カレンダーより)
「いただきますは食事の合図ではなくて、命への礼儀です」

法話の讃題(さんだい・・法話の拠り所となるお聖教の言葉) 
「清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ」(浄土和讃) 


今回のご讃題は、毎月このお講さまでおつとめする6首の和讃のうちの5首目です。このご和讃には、ありがたいことに親鸞聖人ご自身が註釈を付けて下さっていますので、それを確認します。原文はカタカナ書きの古語ですが、「清浄光明」という言葉の横には、「貪欲の罪を消して下さるおはたらき」と書いて下さっています。「遇斯光のゆえなれば」の横には「阿弥陀仏にお会いしたがゆえに」という註釈があり、「業繋」の横には「罪の縄にしばられる」、「畢竟依」の横には「さとりが極まっておられること」、「帰命」の横には「召しに従う」という註釈があります。


 特に僕が驚きを感じたのは、「遇斯光」について、阿弥陀仏に「お会いしたがゆえに」と書かれてあることです。原文では「マウアヒヌルカユエニ」と書かれています。これは、完了形だそうです。つまり、宗祖は阿弥陀仏にお会いしたと、はっきりと私たちに教えて下さっているのだと思います。それは、宗祖が法然上人にお会いしたということを意味しているのだと思います。法然上人イコール阿弥陀仏ということではありません。法然上人というお方の力の源に、法然上人というお方の生き方の源に、阿弥陀仏がはたらいておられることを親鸞聖人がはっきりと見て取られたのだと思います。正信偈に「憶念弥陀仏本願・弥陀仏の本願を憶念する」とうたわれるように、法然上人が阿弥陀仏のご本願を思いながら人と接し、食事をし、毎日を暮らしていらっしゃるお姿を目の当たりにし、法然上人が阿弥陀仏を思うお姿は、実は阿弥陀仏からのおはたらきをただ受けていらっしゃることに他ならないのだと、阿弥陀仏からの呼びかけにお答えになっている、聞いていらっしゃることなのだと、そのように感動を持ってご覧になったのだと思います。法然上人が阿弥陀仏のご本願を思いながら人と接し、食事をし、毎日を暮らしていらっしゃるお姿は、法然上人ご自身の「十悪の法然房」「愚痴の法然房」という言葉として今に伝えられています。十悪とは、殺生(せっしょう)から始まる十の悪です。法然上人は、自分の正体はこの十悪であるとおっしゃるのです。自分は殺生をして生きているとおっしゃるのです。法然上人が阿弥陀仏のおはたらきを受けられた証しは何かというと、「十悪の法然房」「愚痴の法然房」というご述懐に他ならないと思います。


 「遇斯光」とは、文字通りには「斯の光に遇う」という意味です。光というのは、まぶしい光線ではなくて、阿弥陀仏のおはたらきをたとえた言葉です。遇うというのは、こんにちはといって会うのではなくて、そのおはたらきを間違いなく受けたということのたとえです。遇うということを具体的にいうならば、自身は「十悪」であり「愚痴」だということを、阿弥陀仏のおはたらきによってはっきりと間違いなく疑いなくこの身の腹の底で納得させられたということだと思います。歎異抄にはっきりと伝えられるように、親鸞聖人は、法然上人が阿弥陀仏に間違いなくお会いになっているお姿を拝見して、念仏の仏道の真実さにお目覚めになられたのだと思います。そして、親鸞聖人ご自身もまた、愚禿と名乗られて生涯を送られました。


 十悪こそが自分の正体であると納得させてもらうことは、そのような正体の自分に依ってはならないという阿弥陀仏の呼びかけを聞くからこそです。それに依らずに、畢竟依つまり阿弥陀仏の本願に依れというおはたらきを受けるのですから、自分は悪人なんだから何をしてもいいと開き直る態度とはまるで逆です。そうではなくて、自分の深い罪は償ってもつぐないきれないと感じることです。しかしながら、清浄光明という言葉の註釈に宗祖が書かれているように、不思議なことに罪を消して下さるのが阿弥陀の呼びかけの言葉です。罪の縄に縛られていたのをほどいて下さると書かれています。罪を消すといっても自分の罪をチャラにしてくれるということではなくて、自分で自分の罪を背負えるはずがないのに、不思議なことに自分で自分の罪を受け入れることができるということだと思います。自分の罪から逃れられないことには変わりはないけれど、不思議なことにその苦しさが流れて下さるということだと思います。
 今月のカレンダーは、「いただきますは食事の合図ではなくて、命への礼儀です」という言葉でした。毎食毎食いのちあるものをいただいて生きていることを忘れているので、とても痛い言葉です。ブロッコリー一つとっても、実は洗うときにムシを殺します。ゆでるときにもそうです。農薬をまくならば自分の手を汚しはしませんが、無数の生き物を死に追いやっています。そんなことを考えて食事を取ることはまずありません。ですから、カレンダーの言葉に接すると、「明日からはいのちを奪っていることを考えていただきますを言おう」と、僕はすぐ思ってしまいます。


 しかし、自分の正体は「十悪」であると疑いなく納得したことを思い出すなら、そのような明日からの約束は、うすっぺらい化けの皮に他ならないことが、痛みを持って知らされます。心が落ち着いて、時間もたっぷりあるときなら、そのような約束も守れるでしょう。しかし、僕の正体は、ガツガツと食べる餓鬼の姿にあるのです。腹が減ってガツガツ、時間が無くてガツガツ、おいしくてガツガツです。それは十悪の姿、殺生の姿なのです。たまたま、約束を守れる時もあるでしょう。そうしたら今度は、いのちを思わずに食事をする人を見て、きっと見下すような態度を取るでしょう。それも十悪の姿です。それが自分の正体だとは受け入れがたいことですが、不思議なことにその通りだと痛みをもってうなずかされるのです。そして、初めて、いのちへの畏敬の気持ちが湧き起こることを、阿弥陀仏のはたらきとしていただくことができるのです。

2006/10/30 文責 一哉



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