平成19年 お正月

1月1日

HPをご覧下さっているみなさん、いつもありがとうございます。
年頭にあたり、まずもって感謝申し上げます。

年末年始は、もっとも気分が解放される時でしょうか。
親戚がにぎやかに集まったり、ゆっくりTVを見たり、初売りに出かけたり、
いろいろなお正月があることでしょう。
そんな中、次々とお寺へお参りなさる方々にお会いしますと、
とても大きくておごそかなものを感じます。
そのお姿には、亡くなった人への思い、
そして、亡くなった方からの働きかけ、その両方が感じられるからです。
確かに、ご自分の足で歩いて来るわけで、その意味では「参る」のですが、
知らず知らずにお育てをいただいたおかげで、亡くなった方から「参らせてもらう」そのように感じます。
それは、故人への私的な愛情や、特定の方からの御恩ということではなく、
自分の想像よりもはるかに広いお働きによって、お育てをいただいたということだと、
僕はそのように思います。
故人から働きを受けているなんて、幻想だと言われるかも知れませんが、
僕には、それは目には見えずとも非常に確実な事実として感じられます。
そして、故人だけでなく、現に生きている人々や社会に対しても、
お互いに深いお育てを受け合っているんだという見方をすること、
それが、お念仏が開いて下さる、明るい眼だと思います。
そういう眼を大事にされた方々が、幸せなことに、身近にたくさんおられました。
こうやって言葉にすると、とても難しいことのようになってしまいましたが、
実際は、普通のおじいさん、おばあさんです。
お釈迦様や親鸞聖人というカリスマ的な人に手を合わせるというより、
広くておごそかなお働き、お育ての力、ご恩、大地のように低くて広い社会観、
そういったものを大事になさっていたように思います。

年頭に、地元のお寺へお参りになられる方々のことは
ニュースにも何にもならず、世間の関心を集めることはないのですが、
お祭り一色に近いお正月の雰囲気の中で、
僕はとても大事なことじゃないかと、改めて教えられました。


6時より晨朝(おあさじ)



続いて納骨堂で晨朝。



9時前、初日の出。



10時、武周のみなさんがお集まりです。



盃を回します。



町内会長さん、門徒総代さんのご挨拶。



乾杯の後は、昨晩の酔いもさめやらぬうちに、もう一杯。



二ツ屋の方が、次々とお参りになります。とても静かな時間です。



年頭のご挨拶を。



病気の話から、寺と若者との関係、果ては日本の将来の話まで。



夕方までゆっくりと。





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