本山お差し向け布教

6月14、15日(西雲寺にて)  布教(新潟) 日野宣也師

日野師のご讃題(お説教の中心となる聖典の言葉)は、
  極悪深重(ごくあくじんじゅう)の衆生(しゅじょう)は
  他の方便(ほうべん)さらになし
  ひとえに弥陀を称してぞ
  浄土にうまるとのべたまう
という、親鸞聖人の歌(和讃)でした。
これは、親鸞聖人より200年くらい前の、源信僧都(げんしんそうず)という先輩の教えを
ほめたたえた歌です。
この歌は、正信偈の中では
  極重悪人唯称名仏(極重悪人はただ仏を称すべし)
という言葉で歌われています。

師は、極悪の衆生ということを、「いのちを私的流用する者」と言われました。
いのちは自分の所有物でないのに、という意味です。
逆に、浄土ということを、「いのちの公(おおやけ)性」と表現されました。
いのちは関係し合いながら成り立っている、という意味です。
そのことを教えて下さるのが、善知識(ぜんちしき=師、先輩)であり、
念仏も、善知識のおすすめがあって初めて口に称えられる、と話されました。
だから、南無阿弥陀仏と称えるところには、必ず人が2人いる、
それは自分と善知識とであり、そこに、いのちの公性が開かれると話されました。

念仏が起こってくるには2人要るという教えに、深く共感いたします。




まず最初に、本山からの御添書(おそえしょ)を拝読されます。



梅雨入り前のいい天気。でもストーブの空だきを喜ばれる方がたくさんおられます。



日野師。絶えず板書されるかたわら、老眼鏡の上から柔和な視線を投げかけられます。



村のお姉さんが、手塩にかけて育てたユリを供えて下さいました。



これもそう。親鸞聖人(ご開山)前。



一服には、この季節らしく「煮梅」が振る舞われました。