前住職17回忌

5月16日(土)

前住職「釈一彦 明治42年1月6日生まれ 平成5年4月10日往生・数え85歳」

私は孫にあたります。
子供の頃、ずっと隣でご飯を食べていました。
おちょこを愛で、お酒を最後の一滴まで愛でたことは、子ども心に覚えています。
よく散髪もしました。
散髪といっても、バリカンで横と後ろを刈るのです。
頂上は、ポツンポツンと…そんな映像は忘れんもんですね。
鼻歌を歌いながら廊下を歩く姿も忘れられません。
「寒いと言うもおろかなり〜」っていう歌詞もメロディも鮮明です。
もちろん、面白がってしょっちゅうマネしていたから覚えたのです。

法事って、どんな儀式なんでしょうか?
前住職の17回忌を御縁に、あらためて考えてみたいと思います。

寺族や地元の方は、仏前を荘厳して、おときなどの準備を整えます。
遠い方は、お供えものや「御仏前」をたずさえてお参りなさいます。
役割はいろいろ違うけれども、
「敬う」ところが共通しています。
何を「敬う」のか、実はそこが肝心かなめだと思います。

法事は形ばっかり…
確かにそうかも知れません。
でも、かすかに残る形には、実は先人達の後ろ姿がにじんでいるのです。
「おとき」という伝統を考えてみますと、
水も食べ物も、提供して下さった方も、食べ物をいただく時間ですら、
自分には過ぎた有り難い(当然ではない)恵みとしてお敬いする姿が浮かびます。
その敬い方には、故人ひとりを超えたものを感じます。
「御仏前」という習慣もそうです。
遺族に差し出すのですが、遺族のためにではないことはもちろん、
「仏」とはひとりだけではありませんので、
故人を超えた「仏」と呼ばれる大きな世界の前にお供えして、敬いを表すのです。

人を超えているもの、それは一般に、うとましく怪しく思われがちです。
しかし、数々の先輩方が身をもって示して下さっているのです。
一人の人間は、必ず骨になるのだと。
人を超えた世界によって、心底豊かに、心底満たされるんだと。
自分中心でしか世界を見られず、自分を基準にしてしか考えられない、
そのジコチュウの姿が、心底貧しく、心底恥ずかしいんだと。

故人は、確かに、心底おろかな自分に出会われました。
故人は、確かに、心底敬うべき水や物や人や時間に出会われました。
人を超えているものって、何の怪しいこともない、実はこの2つの事実なんです。
自分観・世界観のひっくり返りです。
求めても、ひっくり返りませんし、見ようと思っても見えません。
ひっくり返されたこと、それもまた自分を超えた力によるのです。
その事実や力を「さとり」あるいは「浄土」と呼んだり、「ほとけさま」と呼んだりするのです。

自分を超えた事実、自分を超えた力、それを教える言葉が「なんまんだぶつ」です。
そんなもん自分の力で言える…?
それすらあやしいですけど、それは横へ置いといて、
2つの事実を呼びかける声が「なんまんだぶつ」だと、私はいただいています。
呼びかけを聞いて、ひっくり返されるのです。
単なる故人の口癖だとしても、それを故人を超えた世界からの呼びかけと聞くのです。
自分の口から出ても、それを自分以外の大きな世界からの呼びかけと聞くのです。

故人がえらかったのではありません。
故人は最期まで人間でした。
そして、骨になりました。
しかし、その人間が出会った世界が、ほとけの世界だったのです。
体の役目は終わっても、無数の仏のお一人としてはたらいて下さっているのです。
そういう意味で、敬う対象は故人じゃないんです。

確かに、いろんな思い出も頭をめぐります。
しかし、その思い出を通して、故人を通して、はるかに大きな世界を敬うのです。
「ほとけ」の呼びかけは、故人の生死も超えています。
その呼びかけの中に自分がいると知った時、私も仲間に入れていただくのです。
つまり、その呼びかけによって、自分観と世界観がひっくり返される時、
生き死にを超える喜びの道が、はっきりと見えるのです。
本当に驚きだし、本当に間違いないし、だから本当に有り難い。

釈一彦は、私の前を「愚かなり〜」と鼻歌で歩いて見せてくれました。





アブラギリの葉を持ち寄って下さり、おもいがけず葉寿司をおよばれしました。



おはぎも振る舞って下さいました。つるつるとノドへ行ってしまうんです。



地元の旬の食材を丹念に調理して下さいます。



御法中をご案内して、差定(さじょう)を説明申し上げます。



『仏説大無量寿経』が読誦される中、お同行方が一人ずつお焼香なさいます。


生前の姿を知らない曾孫たちも、周囲の大人を通して何かを感じることでしょう。



おもてなしに丹誠を込めると言う形で、法要に参加してくださっています。



一般のお宅の法事でも、このように手間暇かけた精進料理が振る舞われます。



法話下さったのは、前住の甥にあたる専福寺さまです。



先だっていかれた方は今なおはたらいて下さっておられる、そんな喜びが伝わってきました。



12時をすぎ、にぎやかなおときが始まりました。



ちっともはからうことなく、いただいた信心を表して下さっているんだなあと感じます。



午後2時頃、ようやく屋台骨を支える裏方さんのおときの時間です。



百戦錬磨の茶碗たちをなでるように拭いて、御礼をしているように見えます。