永代経がつとまりました

7月10日

布教 加賀(山代温泉・光楽寺)谷間徹誠師


話が分からんから、参るのをやめたという人の話で始まりました。
なんべん聞いても覚えられんから、お説教を聞くのはもうやめた…と。
これはよく分かる話です。

こんな話もされました。
目をつむって寝ている人は、揺すれば目を覚ますけど、
目を開けたまま寝ている人は、寝ている自覚がないから、起こすのはたいへん難しい…
この譬えは、ピンときにくいと思います。

でも、仏法のお育てをいただくと、
この2つの話は、とても通じ合うように感じます。

なんべん聞いても覚えられんから聴聞をやめようと思う時、
それは謙虚なようでいて、いやいやどっこい、
「覚えられる時もあるんやけどな〜」って思っていたりして、
けっこう自分を高く評価してたりするんですわ。
この状態を、自分のことが分かっていない状態、つまり、
目を開けたまま寝ているって言うんですわ、きっと。
仏法からうなずかされるのは、
自分は寝ている自覚がなかった!っていうことです。
寝ているとは、ありのままが見えていないってことです。
毎日毎日を、夢見るように過ごしているってことです。
仏法は、それを厳しく、迷っているぞと言ってくれます。

先輩達は、それを「ありがたい、ありがたい」って喜んで来たんですね。
よくぞ迷っていることを教えて下さった!って。
それで初めて、米や野菜や魚とも新しい付き合いができた!
それで初めて、他の人たちとも新しい関係が結べた!って。
あ〜〜救われたって。

え〜? ちっともありがたくない?
ふふふ♪ そうなんですね〜
ちっとも癒されませんね〜
何が救われたんだか、チンプンカンプン…

でも、僕は、そんな先輩方が好きです。
本当に救われておられたのが、感じられるからです。
とても尊敬します。
そう胸に感じます。頭で覚えるんじゃなくて…



僕は忘れるから、一座一座、この場限り、聞かしてもらいます。 



「経教(きょうきょう)は、これを喩えるに鏡のごとし」 話を聞くことは、鏡に映る自分を見せてもらうこと。



お初夜。よくみると誰かさんがお参りです…



電灯の方に向いてて、本堂におしりを向けてるざ〜 ガマちゃん。



何を探しにこの世へ生まれ出たのか?思い出せぬまま、すごすごと引き返すのか?そう問いかけられました。