2010年 美和子が聞く

武周のお講さま 2月


当番 えぐろさん

夜7時からおつとめ  お茶  法話2席

3月のカレンダー
 「ご命日『私の死を他人事としないで』といただく」
と正信偈の言葉
 「すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、 常に真実信心の天に覆えり。
 たとえば日光の雲霧に覆わるれども、 雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。」

正信偈のこの部分には
「心の闇を切り裂いて、確かに光を見せてもろんたんやけれども、
(それでも)どんよりとした雲霧が我が心の空を常に覆っている。」
と書かれているそうです。
なるほど!!そうやったんか!!と思っても、すぐによく分からなくなってしまう。
せっかくお説教を聞いても、翌日どころか席を立った瞬間に忘れてしまう。
そんな状態を「雲霧がおおう」と表現されたそうです。

でも正信偈はこのあと
「でも、いくら雲に遮られても、その下まで(雲を通して)明るい光が届くのです」
と書かれているそうです。
いくら曇っていても日の光が私の足元をうっすらと照らしてくれているように、
私たちは雲の下にいても光を感じることができると。
それは私たちが一度、その光を見たことがあるからだと話は続きました。

私たちが見ることの出来る光のひとつが「ご命日」。
大切な人がご自身の「生死」を受け入れて亡くなっていかれたあの日、
私たちはその人からいろいろなものを受け取りました。
あの日から一日一日と時間が流れるにつれて薄れゆくものもありますが、
次の年、また次の年とご命日が巡ってくるたび、
「あの日」がよみがえって、何回でも私を照らしてくれるというのです。

ご命日に限らず普段の生活の中で、
例えば、
「雨が降る前に畑に行ったら、思いがけずきれいなかぶらがあった。
土から顔を出しているのは腐っていたのに、すっぽりと隠れているのはきれかった」と、
満面の笑顔でお寺に持ってきて下さったおばさんや、
「フキノトウを取りに行ったら、日陰の斜面にアサツキが出てた。
若奥さん、昼から取りに行ってきねの〜」と、
とっておきの秘密をうち明ける幼子のように目を輝かせるおばさんなど、
私なんかの比じゃないほどの苦しみを抱えながら、
今、この一瞬を見つめて暮らす方々に接すると
本当に私の今が明るく照らされているのを感じます。
そして、一歩踏み出す勇気をいただきます。