2010年 美和子が聞く

武周のお講さま 10月


当番 かみやしきさん

夜7時からおつとめ  お茶  法話2席

カレンダーの言葉 「お念仏いつでもどこにいても はなれ給わぬ阿弥陀さま」
正信偈の言葉 「本願の名号は正定の業なり」

みなさんは「カラ念仏」という言葉を聞いたことがありますか?
私は初めて聞いたのですが、
ただ「ナンマンダ〜ナンマンダ〜」と言ってるだけの状態を言うそうです。
「念仏称えてれば、何してても救ってもらえるんや〜」というのも同じでしょうね。

まぁ「念仏を称えさえしていれば」とか「悪人でも救われる」とか、
浄土真宗ではよく聞く言葉なので、それで良いのかな〜と思ってしまいがちですが、
そもそも「念仏」というもののとらえ方が全く違うのだと話は進みました。
本来「お念仏」は、私を救いたいという仏の願いが勝手に(?)口から出てくるもので、
私の意志は全く関係ないのだから、
「自分が救われる」ために口から出す「ナンマンダ〜」とは違うわけです。
確かに後者の方は「家内安全、合格祈願」系列ですものね。

そりゃ、全く違うわ〜と思っていたら・・・
「でも、実はこんな理屈コネは愚の骨頂なんですけどね」と話が続き、えぇっ!!っと混乱しました。
親鸞聖人は「ただ、法然上人のマネをしているだけです」とおっしゃった、
理屈ではなく尊敬する人のうしろ姿を真似てお念仏していたというのです。
親鸞聖人にとって、法然上人のお念仏を称える姿はまさに本願の名号(仏のお姿)だったのではないかと。
私達の身近にいらした懐かしい方々の姿を次々と例に挙げながら、
私達のうしろ姿も次の世代の人たちが見ていると指摘されました。

ただのうしろ姿を通してお念仏の心が750年も伝わってきたのかと思うと、
全く信じられないような話ですが、
でもこんな私でも毎朝欠かさず「ナンマンダ〜ブツ」と手を合わせてお参りするのですから、
いえ、するようになったのですから、うしろ姿ってスゴイのかもしれません。
「カラ念仏」の中にご本願が吹き込まれたり、抜け落ちたりしながら
私達は生きていくのかなと思いながら聞きました。