H22年 1月2日

あれよあれよという間に年末を迎え、
ぼやぼやしていたせいか、風邪まで頂戴し、
ますますボ〜っとしながら除夜の鐘を聞きました。
明けて平成22年、
相も変わらず元日からモチやお酒を腹一杯よばれたのに有難いとも思わず、
娘に小言を言う割には、灯油やガソリンで温暖化ガスを出しっ放しの身なのでした。

普段は、それが当たり前みたいに痛いともかゆいとも思わないんです。
除夜の鐘にも、元旦のおつとめでも、ちっとも痛くなかったんですが、
お寺のために、正月から来て下さる村のおばさん方の姿に、
「自分の願いでなく、仏の願いに従うこころ」を感じさせられ、
おばさん方の一日を通してやっと、
仏の願いに背きっぱなしの自分が見えてくるのでした。

やっぱり仏さまって、架空のものじゃないんです。
生きてる人の奥にある清らかな願いを仏さまと言うんだと思うんです。
ややこしいかもしれませんが、
生きてる人が清らかなんではなくて、 
 (毎日のように会う人だからずけずけと言えるんですけど…)
その人の従っている願いが清らかなんです。
でも、その人を通して、僕は仏さま(清らかな願い)に出会うのです。
生きてる人を通さなかったら、触れられないと思います。
 (毎日のように会う人だから言いにくいんですけど…)

願いにもいろいろあるでしょうが、
お釈迦さまが見つけ、法然上人や親鸞聖人がほめたたえ、先人たちが仰いできた願いは、
あみだぶつの願いです。
立身出世とか、家内安全とか、商売繁盛とか、
お正月のころによく飛び交う願いではないのです。

さらにまた、あみだの願いに生きるといっても、2通りあると先人は教えます。
清い願いに近づくように、少しずつ自分を磨いていくのと、
清いのは仏の願いだけと、自分はただほめて聞き従うのと。

法然上人や親鸞聖人が喜ばれたのは、後者の方でした。

数え切れない沢山の先輩方がほめたたえてきた願いを、僕もまたほめたたえるなら、
つまり、願いの歴史に僕もまた加えさせてもらうなら、
僕が死んで形がなくなっても、
僕はなむあみだぶつの歴史となって永遠に生きるのです。

私の在所で、元旦に息を引き取られた方がおられました。
そんなご縁に遇うと、ますますそのことを思わずにはおれません。

ホントに満足して生き、ホントに満足して死ぬために、
立身出世、家内安全、商売繁盛こそが大事だとしたら、
もいっぺん人生やり直したい〜とか、うまくいかんかった〜うらめしや〜とか、
僕なら幽霊みたいになってしまいそうデス…
仏に近づくように自分磨きが必要だとしても、
同じように山のふもとをウロウロするだけで終わってしまうでしょう。
欲求不満のままに。
もし、万が一、自分の思うように首尾良くいったなら、
首尾良くいかない多くの人を負け犬だと言ったり見下げたりするでしょう。

今年も、満足していかれた先輩方に先を照らしてもらわねば。