2011年 美和子が聞く

武周のお講さま 1月


当番 によもんさん

午後2時からおつとめ  お茶  法話2席

2月のカレンダー「他人の悩みには賢く振舞えても さて自分のこととなると」
正信偈 「能く一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃を得」

親鸞聖人に「二種深信」という教えがあるそうです。
二つのことを「まちがいない」と確信すれば、
救いの道が開けるという意味だそうです。
その一つ目が「おぞい(悪い)自分を確信すること」が、
二つ目が「こんな私を救ってくれる光があると喜ぶこと」なのだそうです。

今月のお講さまは、この言葉をご縁にして、
お釈迦様のお弟子である「周利槃特」
という方の話を交えながらすすめられました。

この方は、とっても「あんぽんちん」だったそうです。
でも、そんな彼が誰よりも先に悟りを開き、
あちこちに説法を説いて回られたそうです。
「なぜ彼が?」と、みんな不思議に思ったらしいのですが、
お釈迦さまがおっしゃるには、
それは、彼が急に偉くなったからではなく、
自分自信を「あんぽんちん」だと、よく知っていたから、
そして、自分が一人では生きられない存在であることを自覚し、
こんな自分を見捨てない光の存在を心から喜んでいたからだそうです。

一見何でもないことのようですが、
この二つに気付くのは、なかなか大変です。
私自身を考えても、お説教を何回聞いても、
心の奥底では一番かわいい自分自身を「おぞい(悪い)」とは、
とても認めることは出来ません。
辛い時、助けてもらえれば有りがたいと喜べても、
辛い事柄そのものも含めて「光に照らされている」とは、とても思えません。

「私たちの目は外ばかり見えて、自分自身が見えない」
という言葉がカレンダーの言葉の要約として挙げられましたが
ホントだなぁと思いながら聞きました。

しかし、それでは全く絶望的かと言えば、そうでもないようです。
お釈迦さまの時代までさかのぼらなくても、
私たちの周りには「周利槃特」のような人、いらっしゃいますよね。
その方達が、実際にいらっしゃるという事実、
それがまさに、私たちに示されている「救いの道」なんだと思います。
私が「周利槃特」になる努力をするのではなく、
周りにいらっしゃる彼らを感じながら暮らすことが、、
私に出来る唯一のことなのかなと思いながら聞きました。