2011年 美和子が聞く

武周のお講さま 10月


当番 しもあらやさん

午後7時半からおつとめ  お茶  法話2席

正信偈の言葉
「一生悪を造れども、遇誓にもうあいぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむ」」
カレンダーの言葉
「老いと闘う人もおられる 老いに馴染む人もおられる」」

私たちは普段の暮らしの中で、
なかなか念仏を心に思い浮かべることが出来ません。
おぞい(悪い)心が起こっても、そのことに気付くことも出来ず、
せっかく頂いたご本願もまるで意味がないように感じます。

お説教の中で
「朝まの念仏」(平生、毎日の導きの念仏)と、
「死にしなの念仏」(死に際の念仏)という言葉が出て来ました。
報恩講や永代経など、お勤めがある時間を
「お逮夜、お日中、お初夜」などといいますが、
これは一日を6つに区切った時の言葉で、
残りの3つを加えて、一日に6回の節目でお念仏を称えていたそうです。
それほど平生、いつでもお念仏に触れながら暮らしていたらしいのですが、
いざ、病気やいろんな大変な出来事が起こった時、
年老いて死を感じるようになった時などの一大事に、
お念仏はどんな力になるのでしょう。

正信偈のに出てくる「値弘誓」という言葉には、
たくさんのお心にお遇いするという意味があるそうですが、
お念仏は私の口から出てるけど、
これはいただきものやったんやなぁということがわかれば、
「私が死んでも多くの方々のお心がつまったお念仏の中に溶け込んでいける」
と安心させてくれると話は続きました。

「朝ま」も「死にしな」もお念仏のお心に触れているとはとても言えない私には、
ほど遠い話ですが、
もし、そうなれば本当に心強いだろうなと思いました。

そんな私ですが、実は一昨年、父親が亡くなってから、
毎朝お御堂でおあさじ(朝のお参り)をするようになりました。
父は「南無阿弥陀仏」を「なんまんだーぶつ」とは言わず、
必ず「なむあみだぶつ」と言っていたので、
私もこの時は「なむあみだぶつ」とお参りします。
たった一言、時間にして3秒足らずのお勤めですが、
私にとっては大切な時間です。
まるで死んだはずの父と同じ時間を過ごしているような気持ちになれるのです。
お寺の人間ならば、精進を重ねる暮らしが当たり前だと思うかもしれませんが、
ご縁がないと何も気付かない、私も皆さんも全く同じ、おぞい人間なのです。