被災地 福島県・宮城県を訪れて感じたこと

  6月28、29日


佛光寺派の僧侶仲間たちと共に、福島県相馬郡新地町(しんちまち)を訪れるご縁をいただきました。
次々と完成する仮設住宅向けに、生活用品セットがほしいという要望を受けて、
佛光寺派や本願寺派の有志が、すばやく活動を開始し、約1ヶ月で現地へ納品する運びとなりました。
お同行の皆さんのおかげはもちろん、
現地のお寺さん、大阪の世話役のお寺さんなど、多くの方のお力だと感じました。
西雲寺でも、10日ほどの短期間で物品や支援金を集めなくてはならず、
限られた在所にしか声をかけることが出来ませんでしたが、



急ぎにもかかわらず、品物を寄せて下さった方、支援金を寄せて下さった方、
温かいお心が、とても有り難かったです。
特に、長原、本堂、武周のみなさん、お世話になりました。

現地の要望は、日ごとに変化しているようで、素早い対応が大切だそうです。
震災当初、福井市も毛布やおむつなどを集めましたが、
集まった頃には、現地での需要が満たされてしまっていたようで、
今でも市の倉庫に、大部分が積み残されているとの記事がありました。
自治体や本山などを通じた方が、広く公に活動できるのでしょうが、
どうしてもスピードに欠けてしまうというジレンマがあるようです。
今回、九州から北海道まで100を越えるお寺さんが協力する大規模な活動でしたが、
的確に要望に応えることができたのは、蔭に大変なご尽力があったのだろうと思います。

朝、福井を離れて、日没前にようやく福島県の海岸に到着しました。
約10時間でした。
新地町は、福島県の北端にあり、宮城県に隣接しています。
下の地図の赤いところです。

北陸道〜磐越自動車道〜東北自動車道と乗り継ぎましたが、
磐越道で福島県へ入っても、会津若松や磐梯・猪苗代湖あたりは、たいへんのどかに感じられ、
高速道路からは、震災の影響が見えませんでした。
福島の方から聞きましたが、47都道府県のうち3番目に広い県だそうですね。
郡山で東北道に入る頃から、屋根に青いビニールシートをかけた家屋が目立つようになりました。
郡山市〜福島市〜伊達市と通って、宮城県の白石ICで降りました。
その後、相馬市や飯館村に近づくように南下しながら、
阿武隈川に出て、小さな山をいくつか越えて、新地町の海岸へ向かいました。
海岸まで数キロというところまで近づくのですが、
通った所が岩盤地域だったからか、意外にブロック塀が残っていたのが印象的でした。
それが、海岸から約2キロ付近を南北に走る国道6号線に出たとたん、
目の前の風景が一変したのです。
視界をさえぎる建物が急に無くなり、沼のような更地が広がりました。
何にもないという風景は、あきらかに不自然でした。
近づくと、津波で損壊した家も見えてきました。

この日は、新地町の宿に泊まりましたが、
関西からのボランティアの方々も宿泊しておられました。

翌朝、早くに宿を出て、もう一度国道6号を越え、新地駅の跡地へと向かいました。
4両編成の列車が津波を受けて横転している様子を、報道でご存じの方もいらっしゃるでしょう。

上の写真は、4月10日、共同通信社のヘリが撮影したものです。

以前はこんな駅舎が建っていたそうです。
今は、下の写真のように、線路が少し残っているだけでした。

新地駅跡のすぐ横には、がれきの山がありました。
がれきとひとくちに言っても、本当にいろいろな物があるんですね。
初めて知りました。

看板、畳、便器、プランター、ガードレール、家の角材、電柱、フェンス、トラクターらしきものまで。

赤いランドセルが見えた時には、どきっとしました。
海岸では、防波堤らしきコンクリートの構造物が、ずたずたに壊れていました。
消波ブロックなどは、海岸から1キロほど離れた田んぼらしき所まで流されていました。

運転手さんは無事だったのかと思うと、胸が痛みました。

8時頃には、新地町の役場に向かいました。

ほぼ同時に、僕たちとは別行動をしていたトラックも到着し、
すぐに荷下ろし作業を行いました。

衣装ケースにセットされた生活用品は、一旦、役場の倉庫に収めました。

運搬の途中で破損していたケースは、新品と入れ替えてもらいました。
また、大阪、滋賀、福井とあちこちで荷を積んできたため、
セット内容を記した紙が入っていないケースもあり、手分けしてそろえました。
新地町で必要な126セットを下ろした後は、
残り67セットを別のトラックに積み替えて、会津美里町にある仮設住宅へと運んでいただきました。
そこには、原発に近い楢葉町から避難なさる方々が入居する予定だそうです。
故郷の楢葉町では、放射能の影響で、仮設住宅が建てられないのです。
生まれ育ったふるさとを離れざるを得ないのは、どんなにつらいことでしょう。

会津美里へとトラックを走らせて下さったのは、大阪のお寺さんです。
これは現地の体育館だと思われます。
僕たちは、すぐに新地町にある仮設住宅に向かいました。
規格外の品を集めて、無料バザーを開くためです。

ここは、すでに入居済みで、出入り口に下屋を張り出す追加工事をしている最中でした。
段ボールにして50〜60箱はゆうにあったと思いますが、
沢山の食器や台所用品を、仮設住宅の共同スペースに運び込み、
品物が見えるように梱包をといて、バザー会場を設営しました。
僕たちが段ボールを運ぼうとすると、次々と集まってこられて、
トラックから会場まで、10メートルほどを10人以上で、ほいほいと手渡ししました。
仮設住宅70世帯あまりを束ねる、自治会長さんみたいな方がおられて、
その方の指示で、10人ずつ5分ごとに交代で会場に入る段取りとなったのですが、
開始を今か今かと待つ間、だんだんと戸口がにぎやかになっていきます。
5分は短いなとか、もう一回来てもいいのかとか、にぎやかな声が飛び交う中で、
自治会長さんが、「これだけで嬉しいがなあ」と言って口元をゆるめた姿が印象的でした。

自治会長さんのゴーが出ると、会場になっている一室は大盛況。

やっぱり5分では足らず、何度も足を運んで下さいました。
立ち話をする中で、海岸沿いに広がっていた埒浜(らちはま)という農村から、
集団で移住されている方々だと聞かせていただきました。

中には、2町歩ほどの田んぼがあったと、懐かしそうに話される方もおられました。
でも、2年後には仮設住宅から出て行かなくてはならないこと、
そうはいっても、行く土地もないし、家もないから、どうすればいいか分からないことへと話が及び、
だから、今後どういう支援をしてほしいかも分からなくなったとおっしゃっておられました。
料理は好きだったけど、作る気持ちがわいてこないと言う方もおられました。
まずい料理でも、この皿やったらうまそうに見えるな〜と、冗談が出たときは、ほっとしました。

僕の普段の暮らしは、まったく物にあふれかえっています。
けれど、物がないはずのこの仮設住宅の一角には、確かに幸せと満足がありました。
これから先のことは見えないことに変わりはないけれど、
もともとゼロのはずだった今日が本当に有り難い、恵みに感じられました。
決して元の村と同じではないけれど、
人と人との間に流れる温かさが、確かな安らぎに感じられました。
お鍋ひとつ、お皿ひとつから、福井や滋賀や大阪のみなさんの温かさが、
目には見えない形で伝わったのかも知れません。

なんまんだぶつのお念仏も、普段の満足がひっくり返された、不思議な満足を教えて下さいます。
奇跡が起きるのではありません。
お金が豊かになることでもありません。
物がないままで、金ぴかのお仏壇に象徴されるような満足を感受するのですから、
ある意味、常識外れとも言えるでしょう。
でも、沢山の先人が、物がないままの満足を喜んでいかれました。
本来ゼロ・本来罪の自分が、無限の恵みに出逢っていることの、懺悔と喜びです。
なんまんだぶつは、懺悔と喜びの二つが一つになった言葉です。
お念仏のこころも目には見えませんが、
こうやって、埒浜の方々のお姿を通して、目の前で見せていただいた気がしました。

実は、朝の新地町役場の時から、 宮城県亘理郡亘理町(わたりちょう)の真光寺(しんこうじ)さんに
たいへんお世話になっていました。
ご住職とその娘さん、門徒総代さんなど、複数の方が段取りをして下さいました。
お昼は、ここのバザー会場で、真光寺さんが用意して下さったお弁当をいただきました。
のどが渇いていたので、冷たい飲み物も有り難かったです。
その後、門徒総代さんのご自宅に寄せていただいて、バザーで余った段ボールを預かっていただき、
亘理町から新地町に至る海岸線の、パノラマ写真を見せていただきました。
僕の目にはさら地にしか見えなくても、総代さんは元の在所の名前を次々と挙げていかれました。
続いて、本願寺派の真光寺さんにお参りいたしました。

震災にあわれてからずっと、精力的に支援活動をしてこられたそうです。
お同行も16人が亡くなられ、中には海岸付近の自動車学校へ通っていた18歳くらいの若者もいたんだと、
淋しそうに語っておられました。

本堂内では、本山の宗祖750回大遠忌への参拝者を募っておられました。
宮城から本山へお参りするのは本当に一大事なんだと、改めて知らされました。

沢山のことを教えていただいた東北の地を離れ、再び日本海へと車を走らせました。
ミニバンを5人で交代して運転したおかげで、車内もにぎやかで、車も順調でした。
武周のお寺に着いたのはちょうど日付が変わる頃でした。
最後の仲間が姫路に着いたのは、夜が白々と明ける4時頃だったそうです。
仲間たちにも、感謝です。
7/9 護城一哉 記