平成17年の声明会
(4月〜12月)


12月10日の声明会

今日はストーブを囲んで4人で歎異抄を読みました。
この悪天候の中を歩いてこられたと思うと
本当にありがたいことだと感じます。
魔界、外道、罪悪、業報など
一つ一つの言葉がぴんと来ないなあといいながらも、
「念仏者は無碍の一道なり」とは、
念仏者を励ますようにも読めるし、
何をしてもいいと開き直るようにも読めるし、
という話も出ました。
長い第6章をとばして、短い第7章をやっちゃおうという企てでしたが、
そうは問屋が卸さないって感じでした・・





11月19日の声明会

今日は冷え込みが厳しかったこともあり、
お寺のお内仏がある座敷で開きました。
せっかくだから、おつとめを先導する導師を募ったところ、
来春亡き父の七回忌を迎えるからという理由で
若手の木村さんに決定。
大汗をかきながら頑張っておられました。


その後は、歎異抄第5条を読み合いました。
僕なんかは慣れっこになってしまっている言葉にも
しっかりと立ち止まって考えます。
この文章の語り手は、本当に親鸞聖人か?
父母のために念仏しないという意図は何なのか?
有縁と父母兄弟とは同じなのか?
有縁の人を「度す」(救う)のは一体誰なのか?
いそぎさとりを開くというが、いそぐとは?
もっと時間がほしいくらい、中身の濃い意見の交換ですが、
難しい雰囲気ではなく、みんな思ったことを口にしているだけ。
HPをご覧のみなさんもお越しになりませんか。
どうぞ気軽に。きっとみんな歓迎しますよ。






10月15日の声明会

ちょっと唐突ではありますが、あさっての報恩講の夜、
我々でおつとめをしようということになりました。
平日なので、来られない方が多いのが残念です。
でも、頑張ってみるかという雰囲気で話が進み、
男女で交互に調子を取ることに決定。
あさってが楽しみです。

歎異抄は第4条でした。
聖道と浄土との区別をしているのは分かるけれど、
なぜ浄土の慈悲でないといけないのか、
それがよく分からないという意見が多数。
そうですよね。
これからその疑問を大切にしていきたいと思います。
下の写真は今日のおやつシーン。
子供が学校から持ち帰ったサツマイモで作ったスイートポテトでした。






9月10日の声明会

急きょ、文化祭の歌の練習が入り、
ほんの30分ほどしかおつとめの練習ができませんでした。
歎異抄が読めなかったのが何より残念。
でも、いつもお世話になっている武周町内のことだし、
こういうこともあるさと、歌の練習に精出しました。
特に男性の皆さん、気を悪くなさらずに、
次回またお目にかかりましょう!よろしくお願いします。






8月13日の声明会

残りの30分ほど、がやがやと歎異抄を拝読してみました。
今回の歎異抄の読み合わせは第三章でした。

『善人なおもて往生をとく、いわんや悪人をや。』
  という、有名すぎるほど有名な一文から始まるこの章は、
とても大事なことが書いてあるのはわかるのですが、難しくて難しくて、
そのあとの文章を読み続けても、ずっとわからないままの状態が続きました。

それでも仲間がいるのはいいもので、分からないなりにも、
「まるで、悪人がいいって書いてあるみたい」
「悪人の意味がちがうんとちゃうか」
など意見が飛び交い、ヨロヨロとさまよいながら最後まで読み終えることが出来ました。
結局、悪人という言葉の解釈が三章ではとても重要だということになったのですが、
その悪人が何を指しているのか、結局意見をまとめることは出来ませんでした。
…というか、まとまらないものなのかもしれないというところに落ち着きました。

今回私は、ずっと読み間違えをしていたことが発覚しました。
「ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ」という所を
こころがけるだと思い込んでいたのです。
でも、読みながらやっぱりそれでは意味が分からないと詰まっていると、
「これは『心が欠けている』という意味じゃないの」と教えていただきました。
なるほど、欠けているのなら分かる!!
かなり赤面しましたが、結果的には声明会の場で気がついてよかったです…

3回読み終わって、参加されていた方がポロッと
「なんか、歎異抄って新鮮やね」とおっしゃいました。
私はなんだか、その言葉にドキッとしました。
確かに700年位前の書物だというのに、いま、お御堂に集まっている私たちに
直接訴えてくるような不思議な迫力があります。
来月は第4章、実は私はここら辺から本当にチンプンカンプンなので、
声明会の方たちが一緒だと思うと、とても心強いです。
次回は9月10日、皆さん、お御堂でお待ちしています。
(美和子)


あゆみ撮影



7月9日の声明会

子供は覚えも早いし、のみこみもいいんですが、
我々大人は、何でも新しいことは苦手ですね。
慣れるまでに一苦労します。
節のある正信偈も、回数を重ねていきましょう。

今回の歎異抄は第2条でした。
「命をかえりみずに関東から京都までおいでになったのは、
ひとえに往生の道を問い聞くためですね。」
第2条冒頭にあるこの言葉には、大変な重みを感じます。
宗祖の返答も、この問いに命をかけて向かい合ったものなのでしょう。

おいでになれなかった方々も、ぜひ読んでみて下さい。






6月11日の声明会

残りの30分ほど、がやがやと歎異抄を拝読してみました。
「全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ・・」
「往生をば とぐるなりと信じて 念仏もうさんと おもいたつこころの おこるとき・・」
あちらこちらから、皆さんの読む声が耳に入ります。
「ああもう、こんで分かった」とか「どういう意味やろのう」とか言う声も聞こえます。
そんな一言ひとことが、とても新鮮に響いてきました。
みなさんありがとうございます。
おいでにならなかった方も、ごいっしょにどうぞ。
そうそう、恩徳讃も男声が混じるといい感じでしたね〜


竊(ひそ)かに愚案(ぐあん)を回(めぐ)らして、ほぼ古今をかんがうるに、
先師の口伝の真信(しんしん)に異なることを歎(なげ)き、
後学相続の疑惑有ることを思うに、幸に有縁(うえん)の知識に依らずは、
いかでか易行(いぎょう)の一門に入(い)ることを得んや。
全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。
よって、故親鸞聖人御物語の趣き、耳の底に留(とど)まるところ、
いささかこれを注(しる)す。
ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなりと 云々(うんぬん)

第1条
弥陀の誓願(せいがん)不思議に たすけられまいらせて、
往生をば とぐるなりと信じて 念仏もうさんと おもいたつこころの おこるとき、
すなわち 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)に あずけしめたまうなり。
弥陀の本願には 老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすと しるべし。
そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛(ざいあくじんじゅう ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にて まします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願を さまたぐるほどの 悪なきがゆえにと云々






5月7日の声明会

急に冷え込んだ出にくい夜に、皆さんようこそお集まり下さいました。
今回は、たどたどしいピアノに合わせながら練習をしました。
五線譜でも表現しにくい微妙な音の上がり下がりは、
耳で覚えてしまうのが結局一番簡単な方法だと思います。
1時間20分ほど、同じところを繰り返し頑張りました。

ここで美和子からの提案です。
練習のあと9時までの少しの間、お茶を飲みながら、
一緒に歎異抄を読みませんか。
4月のお講さまの時、「読みます!!」と宣言したものの、
ひとりでは心細いので、ぜひ!!
よろしくお願いします。

護城美和子








4月9日の声明会

初めてお見えになった方も含め、みなさんようこそお出で下さいました。
行譜正信偈(節のあるおつとめ)を、CDに合わせて練習しました。
理屈より慣れだと思いますので、ぜひ続けてお越し下さい。

その後は、雑談。
御内仏にそなえつけの御勧章を持参なさり、
これは何だろう、どういう時に読むのだろうと、率直な質問をいただきました。
ありがたいことです。
私も勉強になります。
そのほか、ローマ法王の話、
キリスト教の話など、いろいろしゃべっているうちに
あっという間に9時をまわってしまいました。






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